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■夢と責任の間で
一方の大人たち、私たちはどんな夢を持ち、次世代の若者たちに何に託そうとしているのでしょうか。現在、日本の子供一人にかける教育費は年々上がっている反面、教育のレベルアップが叫ばれています。そこで議論されていることは、単に基礎能力低下への危惧と対策であって、それ以前に必要な人間形成教育に関する議論がないがしろにされているように思います。人間としてのモラル教育の欠如が社会問題にまでなっているにもかかわらず、それらは教育費外、教師が体罰をもって子供を叱ることができない以上、家庭で責任もって行いなさいよ、ということなのでしょうか。
一人の国民として国を形成していくという意識や家族を形成するという意味、さらに言えば、自分自身が世代を担っていくという意思、人として生きていくための本来が、基盤にあってこその教育だったはずです。ここで“ホリエモン”や“村上ファンド”を引き合いに出すのは短絡すぎるかもしれませんが、その主張には社会全体への考慮が欠けていて、何を物語るにしても“自分だけがよければ”という意識が現われているように思いました。
では経営者は、社会に対してどうあるべきなのでしょうか。会社は仕事によって利益を追求するシステムであり、その利益配分によって個々の社員が幸せになるための場です。もちろんお客さまにも利をもたらしたい。ついては会社組織が社会にどれだけ貢献できるか、それが根本的な姿勢であり目標です。
法に触れる事件を起こし、社会的保障の問題になってはじめて経営者の責任が問われるといった事件が起こるたびに、「利を求めるのであれば方法論は選ばない」という考え方が露骨に表出しています。どんな処方を用いても、株主を愛し、株主だけに還元し、業績を追及していくことばかりが評価される風潮が平然と通っている社会になってはいないでしょうか。決して偽善者ぶっているわけではなく、このままでいいのかという大きな危惧を抱いています。
先日、「利を見ては義を思う」という論語の教えを引いた論説を新聞の社会面で目にしました。「問題は、利益を上げるためには何をしてもいいという意識にある。決してそうではないだろう。自ずから善悪のけじめはつけなくてはならない。まずは定められた法令に従わなくてはならず、それは苦しくても辛くても守っていかなくてはならないルールである。では法令さえ守っていればそれで十分なのかというと、そうではない」。それを教えているのがこの「利を見ては義を思う」という先人の言葉であると筆者は述べています。
義とは正しいという意味、人間として当然守らなければならないことですが、では法と義はどこが違うのか。法は違反すればペナルティが課せられるが、義を踏み外しても法に照らされ処分されるわけではない。ここが大きく違うわけです。それでも義を踏み外したらなんの咎めも受けないかというと、やはりそのやり方、経営者の質を批判され、会社の存続を維持していく信用そのものを失うことになります。法令違反は論外、その経営において義を留意していなければ、法を踏み外すよりもむしろボディブロウのように会社を失墜させ、信頼回復には計り知れない努力と時間を要するでしょう。
「ふだん、義をなおざりにする風潮が積み重なって、それが法令違反へと発展してしまうのである。だから利益の追求は義によって十分に歯止めをかけなくてはならない。それができてこそ経営者といえるではないか」と筆者は結んでいます。
このことは、ちゃんとやっているつもりでも、経営者が再確認し、企業教育としても絶必なことと思います。そして、大企業、中堅企業にかかわらず、ある仕事をもって社会に貢献しようとする組織体が意識を結束させることができれば、必ずやモラルも向上するはずなのです。結果、政治家たちがどう税金を使ってくれるのかという納税者の意識や関心も高まるでしょう。
現在、日本人一人当たりの借金が300万円を越えると云われています。このことは経営者としても孫の代まで責任を感じるところですが、そもそも日本人は欧米に比べて、税金に対して無意識、無責任な国民レベルであることは否めません。それも社会参加を認識できない原因だと思います。少なくとも一経営者が一国民として何をなすべきか、私達にはそれが今、問われています。
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