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茶の間 菓子の間
     
お茶とお菓子の間をとりもつティータイム。仕事の傍ら、お茶に魅せられてアジアの茶場を探索する広岡さんは、菓子通としても知られ、お茶をみつけたらお菓子、お菓子があればお茶を、と常にマッチングを愉しんでおられるとのこと。日頃の愉しみ方からおもてなしのアイデアまで、ジャンルやスタイルを問わず綴っていただきます。
 
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茶の間菓子の間


 『釜炒り抹茶』というものを初めて目にしたのは、東京ドームで開催された「テーブルウェアフェスティバル・暮らしを彩る器展」でのこと。九州の佐賀や、熊本・宮崎の釜炒り茶のことは知っていましたが、釜炒りの抹茶となると、多少の驚きがありました。さっそく開封してみると、途端に香ばしい香り、普通の抹茶の香りとは、少し違っていることがわかります。お茶をたててみると意外にも普通の抹茶の味わい。言われなければ、普通の抹茶との違いはわからないかもしれません。味は甘みとまではいかないようですが、飲んだ後にお茶碗に残った香りが、釜炒りや中国茶を思わせました。
 買い求めたのは、九州は嬉野の、黒い缶の西九州茶農業協同組合連合会のものと、緑の缶の去O根製茶のもの。西九州茶連の方のお話では、量が少なくても新たな特産を、との思いから、農業試験場などで試験を繰り返し、2000年頃から『釜炒り抹茶』として販売し始めたといいます。いくつかの農家で茶摘みされた茶葉が集められ、茶連の機械で釜炒りしています。釜炒り茶そのものは、今から60年ほど前までは、どの家にも唐釜があり、自宅用も含めて、手炒りされていたようなのですが、50年ほど前から、機械生産されるようになったということです。今では抹茶用も、量産できるよう機械で作られるようになりました。500℃とかなり高い温度で真っ赤になるほどに熱せられた、らせん状の釜(?)に茶葉を入れ20〜25分炒るのだそうです。その時、バリバリッという大きな音がするとのこと。一度実際に聞いてみたいものです。その後乾燥させて、時間をおかずに石臼で挽いて、出来上がり。釜炒り抹茶においては、すばやく作業工程を進めることが特徴でもあるようです。 
 釜炒り茶そのものが、日本全体の生産量の5%といいますから、その中での釜炒り抹茶となると、さらに極少の生産です。関東在住の私には、釜炒りの抹茶と聞いて、かなり珍しく感じたのでしたが、地元のお茶の先生に使っていただいたりして、九州の茶道教室では、釜炒り抹茶も普通に使っているとの話でした。
 その『釜炒り抹茶』には、同じ佐賀の『逸口香』、そして長崎の『一口香』を合わせてみました。清から「唐饅(からまん)」が伝えられ、弘化元年(1844)創業の茂木一○香(いちまるこう)本舗が、作ったと言われる「一口香(いっこうこう)」。そして嘉永年間に佐賀に伝えられた「逸口香」です。どちらも、見た目は饅頭の形なのですが、初めて手にする人ならば、なにやら軽い感じがすると思うはずです。いざ、食べようと手で割るのか、口にするのか、した途端に、今度は中が空洞になっていることに驚く、という意外性のある作りなのが、おもしろい、ユニークなお菓子です。食べるときのストーリーを想像させるような、食べる過程を考えて作ったかと思えるような、人を食ったようなアイデア(?)なのです。中が空洞という点までもが、哲学的に捉えられるような気がしてきて、奥が深いような気がしてきます。一口香は、ふっくらとした空洞で、おせんべいのような口当たりの黒砂糖と胡麻の風味、逸口香は、一口香よりは空洞が平べったく、黒砂糖としょうがの風味がするという違いがあります。
 さて、このお菓子を合わせた後で、おもしろいことを発見しました。このお菓子が作られたと同じ頃、釜炒り茶が、関東にまで、広がる兆しがあったということです。
 そもそも嬉野の釜炒り茶は、1440年には中国の陶工が来て製陶しながらお茶を栽培していたという言い伝えがあります。また当時、明であった中国で起こったのが釜炒り製法だったのでしょうか、1504年に陶工の紅令民が、日本に唐釜(南京釜とも言う?)を持参し釜炒り製茶法を伝えたと言われています。さらにまた、宮崎には、加藤清正の朝鮮遠征の際に朝鮮からの陶工がお茶の釜炒り製法を伝えたとも言われています。ただしかし、釜炒り茶というものが、どのような経路を経て、どのような形を経て、今に伝わってきたかの詳細は、はっきりしていません。多くは自家用として作られ続けたのでしょう。
 そうして、しばらく後、1690年頃から日本に滞在したケンペルという人の『江戸参府旅行日記』(東洋文庫)には、当時のお茶は、釜炒り茶だったことがわかる記述があること。また1844年(弘化元年)に出版された、当時の最高水準の農書、大蔵永常の『公益国産考』の中で紹介されているのが、釜炒り製法だということから、釜炒り茶は、江戸時代になって商業的な発達をし、その間も、日本人の間で飲み継がれてきたと思われます。
 この釜炒り茶が紹介された弘化元年と、一○香の創業とが同じ年であったということ、たったそれだけのことなのですが、私にはおもしろく感じられたのでした。『公益国産考』の中では、釜炒りではなく、「刈茶」と呼んでいるのですが、江戸や大坂で飲まれている茶は「刈茶」だから、もっと作って売り、利益を上げたらどうか、と書いているそうなのです。釜炒り茶の普及がなされた時期と、中国から伝わった菓子が日本で生まれ変わった時期が、同じ頃であったこと。どちらも、形を変化させながらも、今に伝わってきたということ。九州の地で当時、果たして釜炒り茶とこの菓子をどちらも食した人はいたのかどうか。お茶はどのような人に飲まれたのか、お菓子を手に入れられたのは、どのような人々であったのか。など、多くのことを想像させられながらの、お茶の時間となったのです。
 さて、江戸でも好まれる釜炒り茶と言われてから、だいぶ時間を経た大正時代、唐饅と呼ばれる菓子は、関東でも広がりを見せたようで、千駄木に、九州とは、毛色の違う手作りの唐饅が登場していたと知り、店を訪ねてみました。が、残念。もうすでに店はありませんでした。通りの向かいの、森鴎外記念図書館を尋ねてみると、館員に、その『蛸松月』という店を覚えていた人がいました。が、「おいしかった」という以外に、『唐万頭』についてはわからないと言います。そこで浅草に同名の店があると聞き、再びたずねると親族の経営していた店であったと判明。「唐万頭」は千駄木の店のみで、浅草では作っていないとか。なぜ、大正に、唐饅だったのか、と、これまた、お茶の話からは、ずれていき、また、深い迷路の中に入り込んでしまいました。まだまだ、わからないことばかりです。浅草の「蛸松月」の方の話では、「唐万頭」と「都まんじゅう」は同じであるようなお話し振りで、全国津々浦々にある都まんじゅうと、唐万頭とは、関係がありそうである、との感触を得ました。釜炒り抹茶から、一口香と逸口香、そして関東の唐万頭から、都まんじゅうまで、今回もテーマが広がり過ぎてしまったようです。

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